慈恩寺の歴史

多数の文献をもとにひもとかれる慈恩寺の歴史
慈恩寺は弥勒堂を中心として最上院・宝蔵院・華蔵院の三か院、それに附属する48坊からなる一山組織の寺院であった。現在は三か院17坊である。

慈恩寺の草創

寺伝によれば、神亀元年(724年)、僧基薩が諸国巡錫の砌、慈恩寺の景勝なるを見て都に帰り、聖武帝に奏上し、勅命によって印度僧婆羅門僧正が天平18年(746)精舎を建立して開基したのが慈恩寺の初まりであると書かれている。しかし、これはあくまで寺伝として受け止めるべきであろう。最近の調査で慈恩寺の歴史が少しずつ明らかになって来たのは平安後期からである。

慈恩寺の宗教

伽藍記によれば、仁平年中(1151-53)奈良興福寺の僧願西上人が本願となって来山したとあり、これは興福寺が藤原氏の氏寺で」あったから派遣されたものである。興福寺は法相の寺であった。慈恩寺という寺号も法相宗の祖慈恩大師から来たもので、慈恩寺はその頃からすでに法相の寺院であり、法相寺院で通例とする弥勒菩薩を本尊とした。平安後期の慈恩寺の宗教は法相を主流とし、外に天台などの影響もあったものと思われる。それは常行堂や鎮守としての白山権現、金剛蔵王などを祀ったことによって覗われる。鎌倉時代の初頭、後白河院の院宣や右大将源頼朝の下文をもって弘俊阿闍梨が慈恩寺に来山して正式に真言宗が入ってきた。と同時に修験も入り、葉山との関係も生まれて来たと考えられる。室町時代になると時宗の宝徳寺や松蔵寺も入り、慈恩寺の宗教は法相のみならず、天台、真言、時宗と多くの宗旨が併存した。今日でも法会は法相の法式で行われている。鎌倉時代以降は真言が主流であったであろうが、必ずしも一宗に統一するということはなく、現在の残っている阿弥陀堂の前仏宝冠の弥陀の如きは天台宗で信仰されるものであるから真言のみではなかったといえる。室町の末、大江氏が滅亡すると、これに代わって最上氏が庇護を加え、三重塔や本堂の建築も行われたが、元和8年(1622)最上氏が改易になると、別当坊最上院は江戸幕府の陰の実力者天海僧正に取り入って天台宗に改宗しようとした。これに対して真言方学頭宝蔵院、同華蔵院が反対し、長年に亘って抗争を続けた。寛永19年(1642)慈恩寺は天台真言両宗兼学の一山となった。終戦後一山は宗教法人として独立し、本山慈恩寺と名乗り、慈恩宗となって現在に至っている。

京文化の移入

慈恩寺は、平安後期に摂関家の荘寺的性格の寺院であったため、京文化が直接入って来た。それはこの期の仏像群が雄弁に物語っている。仏像は重文の阿弥陀如来を初め、30体を数えるが何れも中央で造られた優れた仏像である。これらの背景には摂関家の藤原氏があったからに外ならない。鎌倉以降においても現在の仏像は殆ど中央仏師の手になるものである。

慈恩寺の寺領

平安後期には、寒河江荘の荘園主である藤原氏から、供料としての土地が寄進されたものと考えられる。大江氏になってからもそれらを安堵したであろうし、更に寄進の土地もあったと思われる、川向かいの八鍬郷が寺領であったことは、南北朝の文書にある。従って、八鍬郷はそれ以前から弥勒領となっていたものであろう。室町時代の応永2年(1395)には、慈恩寺衆徒が弥勒堂の神輿を箕輪郷に振置きして、箕輪郷を寺領としたという。こうして、江戸時代には寺領は18か村にまたがり、寛文5年(1665)には御朱印高2812石3斗余を幕府から与えられた。東北最高であった。
明治維新後御朱印が停止され、年々逓減録が支給されたが、それも明治14年には打ち切られ、一山は窮乏の渕に沈み、帰農する坊が続出した。しかし、今慈恩寺は重文の本堂を初め、数多い優れた国、県、市指定の文化財を擁して、古代文化の聖地として再生の道を歩んでいる。